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詩才学識を駆使し、天下国家の変革に挑む知識人「月性」を知る、月性展示館 ~地域の歴史(1)

「移住定住コンシェルジュ(柳井市)」サポーターの泉です。
山口県柳井市の観光ボランティアガイドをしています。今回は、知られざる幕末維新の立役者、月性(げっしょう)の展示館をご紹介します。この記事を見て展示館にご来場の方は、「note見ました!」と言っていただけると嬉しいです。

私たち観光ボランティアガイドがご案内します

詩才学識を駆使し、天下国家の変革に挑む知識人「月性」とは

月性は、長州藩(現在の山口県)で最も早く「討幕論」を唱えたお坊さん。
討幕論といえば、同じ長州藩出身の吉田松陰が有名ですが、月性のひらいた私塾「清狂草堂」は「西の『松下村塾』、東の『清狂草堂』」と言われ、吉田松陰の私塾「松下村塾」で学んだ人々にも月性は大きな影響を及ぼしたのです。
月性の功績は、松陰を討幕に目覚めさせた事実上の師であったことに加え、「勤王の志士」たちの精神を高揚させたことが挙げられます。

多くの有能な人物を輩出した私塾「清狂草堂」

その「清狂草堂」に隣接するのが月性展示館。山口県柳井市遠崎(とおざき)にある、妙円寺(みょうえんじ)の境内にあり、付近からは柳井市の名山・琴石山(こといしやま)も臨むことができます。

展示館には、幕末の海防論者で勤王僧である月性の生い立ちや人生を物語る年表のほか、書画、額画、書冊、月性が使用した編み笠や食器などを展示しています。
さらに、「月性の映画」や「剣舞」等の動画も無料で鑑賞できます。

また、境内には、月性の墓碑もありますので、訪れた際には展示館とあわせてご覧いただきたいと思います。

月性の生い立ち

亀井南冥(かめい なんめい)、廣瀬淡窓(ひろせ たんそう)、恒遠醒窓(つねとお せいそう)など、江戸時代の名だたる教育者の学びを身につけた月性の生涯は、明治維新の礎として捧げられることとなります。
その生い立ちから、明治維新への影響までをご紹介します。

文化14(西暦1817)年、月性は遠崎の妙円寺に生まれました。幼い頃の名前を「知円」「煙渓」、のちに「月性」と改め、「清狂」と号しています。
母の尾上は岩国のお寺に嫁ぎましたが不縁となり、月性は妙円寺で生まれ育ちました。詩文に優れた叔父の覚応や学僧として知られた祖父の謙譲らの影響を受け、月性は成長していきます。

天保2(1831)年、15歳のとき、福岡県豊前市の恒遠醒窓の蔵春園に入塾し、5年間詩文の研究に取り組みます。

天保7(1836)年の秋には、佐賀市善定寺不及の精居寮で仏典を学び、長崎でオランダ船を見て世界の状況を肌で感じます。

天保14(1843)年、27歳の月性は、さらに学識を高めるため京阪地方へ向かいます。この時出発に際し詠んだ詩は今もたくさんの人々に愛唱され、その詩碑が妙円寺境内に建てられています。それが「男児立志の詩」です。

「男児立志の詩」詩碑

嘉永元(1848)年頃には、清狂草堂(時習館)を開塾し、多くの門人が学びました。その中には、奇兵隊第3代総督となった赤禰武人や世良修蔵、大洲鉄然らがいます。中でも久坂玄瑞は亡くなった兄の玄機を思い出すというほど、月性を兄のように慕う関係でした。また、赤禰や久坂はのちに松下村塾で学ぶことになりますが、そこに送り出したのは月性です。

清狂草堂外観

嘉永5(1852)年、36歳の月性は妙円寺第10世住職となりました。ペリーの黒船が来航した嘉永6(1853)年頃から、月性は最初の建白書となる海防論を述べた『内海杞憂』や政治改革に関する意見を述べた『封事草稿』を記します。吉田松陰との関わりは、この頃から始まります。以前から月性の名を耳にしていた松陰は、月性の記した建白書『封事草稿』の感想として、安政2(1855)年に討幕論の誤りを指摘した書簡を出したことから、意見を交わし親しくなります。安政3(1856)年7月、西本願寺門主より上洛の召命が届き、月性は上方を目指し遠崎を発ちます。10月には『護法意見封事』を本願寺に提出し、これが、のちに『護国論』という冊子となって全国一万のお寺に頒布されます。月性は、外国の脅威が迫っていることに対して、早急な海防の必要性を説いて回り、これにより「海防僧」といわれることとなります。月性の講演は、武士から庶民、身分や男女の差別なく多くの人々の心を動かす魅力があり、高杉晋作も影響され、奇兵隊結成となって実を結びました。

安政5(1858)年には、松陰も松下村塾の塾生らに月性の講演を聴きに行かせたほどでした。そんな最も活躍していた時に、月性は法談に向かう船の中で発病し、妙円寺に帰寺後、亡くなります。享年42歳。月性は大変優れた詩人でもあったことから、松陰は月性の死を惜しみ月性の詩稿を世に広めようと試みますが、松陰も安政の大獄で安政6年に処罰されてしまいます。 

松陰は処刑される前夜に書き記した遺書「留魂録」の中で、月性の『護国論』や詩稿を天下の同志に寄示してほしいと記したことで、その遺志は引き継がれ、のちに松下村塾から『清狂詩鈔』として世に出ることとなりました。
松陰が「長州で最も才知が優れた人」と評した月性の遺志は、今もなお多くの人びとに受け継がれ、月性の詩も日本だけでなく海外でも多くの人に愛唱されています。

明治維新の先覚者「月性」を知ろう~展示館のご案内

そんな明治維新の先覚者、つまり今の日本の姿のおおもとに影響を与えたといえる月性。
興味が出てきたら、ぜひ月性展示館に足を運んでいただきたいと思います。

月性展示館は、墓碑等を始めとして「きんさい柳井」という柳井ブランドにも認定されています。

そんな月性展示館内には約600点の史料等が良好な状態で保存されており、その全てが文化財となっています。保存状態が良いことは、お客様からお褒めの言葉をいただいています。
中には大正12年頃の映写機もあって、同じく大正12年制作の月性の映画を鑑賞できます(約40分)。ある「歴女」の方は、東京からわざわざ、しかも2度も映画を見に来られたことがあるほど貴重なものなのです。

また、妙円寺の表門は、正徳5年(1715年)に建立され、現在柳井市の有形文化財に指定されています。慶応2年(1866年)の四境戦争大島口の戦いの際には、妙円寺が本陣となったことも。幕末の志士、高杉晋作、久坂玄瑞らや、明治時代には、有栖川宮熾仁親王や伊藤博文らもくぐった表門を、あなたもくぐり抜けてみませんか。

数々の志士がくぐりぬけた妙円寺表門

入館料は200円ですが、400円の一筆箋とセットにすると500円でお得です。清狂草堂では、見学のほか、文香や書写という日本文化の体験(各300円)もできます。体験で作ったもの(文香はしおり、書写は色紙)は思い出のお
土産として、お持ち帰りいただいています。

また、令和5年度にはサイクル県やまぐち、サイクルエイドに指定されました。清狂草堂が国道188号線を走るサイクリストの憩いの場となることも目指していますので、サイクリングの休憩場所としても活用いただければと思います。

難しいことは抜きでも、当時にタイムスリップしたような茅葺屋根の風情や、月性を偲ぶ景観の中で、幕末の息吹を感じていただくことができます。
歴史のことはぜんぜんわからない・・・という方でも、私をはじめ、観光ガイドが館内をご案内もできますので、月性のことを一から知っていただけます。
みなさんのお越しを心よりお待ちしています!

施設名:月性展示館
住所:山口県柳井市遠崎729
電話番号:0820-23-7259
Webページ:https://gessho.net/
入館料:200円(400円の一筆箋とセットで500円)
※文香や書写の製作体験については大畠観光協会のWebページをご覧ください


本記事は、2024年5月時点の情報になります。詳しくお知りになりたい方は、上記の連絡先に直接ご連絡ください。
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